人生を潤す、映画の魅力を多くの人に ~映画プロデューサーの仕事術|ROBOTプロデューサー 小出 真佐樹
IMAGICA GROUPのグループ会社で、エンタテインメント作品から広告コミュニケーション、近年はデジタルコミュニケーションや新しい映像分野にも挑むROBOT COMMUNICATIONS INC. (以下ROBOT) 。映画会社・東映で宣伝担当として活躍後、ROBOTで数々の長編劇場映画を手がけるプロデューサー 小出 真佐樹さんは、「映画は世界に伝わる共通言語。その可能性にこれからも期待したい」と語ります。映画制作の裏話やプロデューサー業の醍醐味について聞きました。
第1回は、映画に魅了され大手映画会社に入社して宣伝に奮闘する日々から、ROBOTではたらくことになった経緯、そして大ヒット映画『ALWAYS三丁目の夕日』制作までの秘話に迫ります。
映画好きが高じて興味を抱いたのは「映画づくり」よりも「宣伝」
“惹句”に引き寄せられた映画館 一人でも多くの人に映画の魅力を伝えたい
子どもの頃から映画が好きで、映画館でたくさんの映画を観てきました。館内が活気に満ちた人気のある作品から、内容は面白いのに館内はガラガラの作品…。この差はいったい何だろう?と考えていました。
映画界に、“惹句”(じゃっく)という言葉があります。映画のキャッチコピーや宣伝文句のことで、人を惹きつけるフレーズということを指します。まだインターネットもSNSもなかった時代。映画の魅力を伝える惹句は今以上に重要な役割を果たしていました。そこで、宣伝とコピー次第で観客動員数も増えていくはず、と考えたんです。映画が好きでしたが、「つくりたい」と思ったことはなくて、どちらかというと「たくさんの人に映画を観てほしい」「映画人口を増やしたい」と思っていました。映画を観ることで、みんなの人生が潤うんじゃないかなって。なので映画の宣伝マンになりたかったんですよね。
毎月『スクリーン』『ロードショー』などの映画誌は欠かさず購読し、なかでも、当時『キネマ旬報』で東映の『仁義なき戦い』シリーズをはじめ、角川映画の数々の作品のコピーを手がけていた”惹句師”といわれる関根忠郎氏の連載は宣伝の裏話が面白くて、夢中になって読んでいました。学生時代は、いまのように動画配信サービスもなく、レンタルビデオも充実していなかった。紙媒体の『ぴあ』を片手に、「観るべき映画100選」というような記事を参考に、都内の2本立ての名画座をはしごして、ハリウッドの大作から邦画のインディーズ作品までジャンルを問わず観まくりました。
念願の宣伝担当になったものの、悪戦苦闘の日々
大学卒業後は、東宝・松竹・東映の中でも、当時『ビー・バップ・ハイスクール』シリーズでヒットを連発し、勢いのあった東映に入社しました。テレビや映画のプロデューサー志望者が多く、僕のような宣伝職志望は奇異に映ったようで、故・岡田茂会長(当時社長)の「宣伝をやりたいなんて、変わった男だねえ、君は」の鶴の一声で採用が決まったような気がしています。
入社後は、宣伝予算を管理する宣伝部業務室に配属され、そこで宣伝費の使い方を学びました。億単位の宣伝費を東京、地方、イベント費、メディアに割り振るのですが、長く続く業界の慣習もあり、新しい試みをしようとしても自分の思うようにはできないといった葛藤を抱える日々でした。
そのほか、地方キャンペーンに向かう俳優の方々の送り出し、お迎えなども時々おこなうことも。宣伝プロデューサーから「小林旭さんの大阪キャンペーンからの東京駅到着の迎えに行って来て」と言われれば、新幹線到着を待ち、(そのまま)「銀座に飲みに行くぞ」などお誘いを受けたり、松方弘樹さん、吉永小百合さん、岩下志麻さんらの主演映画にも多くかかわらせていただき、とてもいい経験になりました。
数々のユニークな仕掛けで話題に
同じ頃、会社もヤクザ映画路線から『オーロラの下で』(1990年)や『きけ、わだつみの声』(1995年)など大作国民映画路線に舵を切り始めていました。
松方弘樹さんが主演150本目にして最後の東映ヤクザ映画にすると上層部が決めた『首領(ドン)を殺(と)った男』(1994年)の宣伝では、松方さんの集大成として全主演作のタイトル、公開日、監督名を列記して両観音開きフルカラープレスリリースを作りました。結構、資料性も高かったと思いますよ。
『極道の妻(おんな)たち』シリーズの7作目である『新極道の妻(おんな)たち 惚れたら地獄』では、社内企画書にシリーズ総収入が100億円突破と書かれていたので、1作目からの7作目までの岩下志麻さん、十朱幸代さん、三田佳子さんの啖呵(決め台詞)を作品から抜き出したシングルCDを作成、前売り券の購入特典にして結構話題になりました。
東映宣伝部での最後の担当作品となった堤幸彦監督の『溺れる魚』(2001年)を務めたときには、社内の企画プロデューサーが監督と話した中で「完成披露試写会の舞台(東京厚生年金会館)で映画の中で堤監督が演奏するバンドの実演をしたい」と言うので、主要な出演者の事務所と打ち合わせを重ね、メディア向け資料を作り、進行の脚本も作りました。
いまでこそ、宣伝の仕事はWEB、広告、メディア対応など担当が細分化されていますが、当時は、一人で多岐にわたる業務を裁かなければなりませんでした。面白いことをやろうとすれば、やることが際限なく増えていきますね。もちろん、自分のアイディアを面白がってもらい、任せてもらえることが増える喜びが勝っていました。
ROBOTとの出逢いで映画の製作側に
ROBOTとの接点は、フジテレビさんが幹事でROBOT・東映で制作した本広 克行監督(当時はROBOTに所属)の『スペーストラベラーズ』(2000年)の宣伝プロデューサーを務めたことがきっかけでした。『スペーストラベラーズ』がイタリアのファーイーストフィルムフェスティバル映画祭で上映されることになり、本広監督と同行する機会があったんです。そのときに監督から「ROBOTもこれから受注制作だけでなく企画や幹事、配給などもやっていくみたいですよ」という話を聞きました。
僕自身、宣伝に行き詰まりを感じていたタイミングでもあり、当時のROBOT映画部部長の堀部徹さんに相談に行ったことが転職のはじまりでした。森淳一監督の映画『Laundry』(2002年)の製作委員会組成や、配給業務を構築し始めることからROBOTでのアソシエイトプロデューサー業務に軸足を移していきます。
タイトルで企画が大きく動き出した! 『ALWAYS 三丁目の夕日』シリーズ
『ALWAYS 三丁目の夕日』(2005年~)シリーズには、僕もアソシエイトプロデューサーとして本作に加わったものの、実際に製作に漕ぎ着けるまでにはかなりの時間がかかりました。
本作はROBOT創業者・顧問であり、名プロデューサーの故 阿部 秀司さんの「昭和30年代の、東京タワーが作られていく高度成長期の時代を描きたい」という熱い想いから生まれた企画でした。阿部さんは、かつて、映画のエンドロールで「制作協力」クレジットされていた制作会社を「制作プロダクション」という表記にクレジットできるようにし、業界における制作会社の地位を押し上げた方だと思います。
『ALWAYS 三丁目の夕日』の原作漫画『三丁目の夕日』(原作:西岸良平 小学館)は一話完結の市井の人々の物語です。映画の目指すターゲットは映画館に足を運ばないとされていた団塊の世代。制作費は、当時で破格の10億円をかけようというチャレンジングな企画で、なかなか簡単には動き出していかなかったのです。
阿部さんも(映画のタイトルに悩まれていて)「原作の『三丁目の夕日』は安心感があるけれども、映画として何かもっと大きな、広がりのあるフレーズを加えられないかな…」と話していました。
そこで、映画の最後に出てくる「50年前も、50年後もこの夕日は同じ」という台詞にコンセプト的にも合致し、「いつも」「ずっと」を意味する「ALWAYS」という言葉を二人で雑談している時に提案したんです。すぐに阿部さんも「それだ!!!」となり、そこから改めて幹事会社の日本テレビさんや配給の東宝さんに働きかけ、企画が大きく動き出しました。
今から思えば嘘のようですが、11月の公開初日の動員は大ヒットというほどではなく、関係者一同、作品への満足度も期待値も高かったので少し落胆していました。ですが、翌週、翌翌週と週を追うごとに動員が右肩あがりになり、ロングランヒットを記録、各映画賞、日本アカデミー賞受賞の時期まで続映されたほどの国民映画になりましたね。
次回は、プライベートで行った韓国旅行をきっかけに、現在担当されている日韓映像制作の橋渡し役になったという異例のキャリアや、作品をリメイクする上で大切にしている視点などについて伺います。お楽しみに。
ROBOTの事業領域は、CM・ウェブ・劇場映画に始まり、近年はグローバル配信ドラマ・XRコンテンツ・大型アトラクションなどへと広がっています。
社内には様々な部門、様々な業務があり、随時募集を行っております。
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本記事は2024年11月に実施したインタビューをもとに掲載しております。最新情報とは一部異なる可能性もございます。